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お江戸にも”通し矢”の三十三間堂があった
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      やはり居合(杖道)に熱心な読者?が多いせいか他の武道弓道
    の話題は講談的な話とはいえ、アクセスがいつもより少ないようです。
    ですが、折角ですから本論の”通し矢”で有名な京都”三十三間堂”
    (蓮華王院)が”お江戸”にも実在したという話を続けます。
    その場所は浅草に建設されました。

     通し矢が五千本を超えて盛り上がり始めた寛永も後半、森刑部
    少輔直義(九州の久留米で田中兵部大輔吉政に仕え千石を受けて
    いたが致仕した)は弓術に長けていたこともあり、江戸にも武家仲間
    の競射場として京都の三十三間堂を造ろうと決心。
    そして、寛永20年(1643)4月に竣工した。大きさは東西約48間余、
    西方が矢場、北方が的場だったが、京都よりは少し小さかったが、
    ここで京都同様通し矢の競い矢が行われたという。

     この江戸三十三間堂も元禄11年(1698)京橋から出火、残念にも
    類焼してしまった。しかし幕府から代替地が深川に与えられ、赤穂義
    士の討ち入りがあった前年の元禄14年(1702)9月に完成した。
     場所は現在の江東区富岡町2丁目(お近くにお住まいか興味のある
    方は痕跡を探してみて下さい)だったそうです。しかし、明治5年廃仏
    毀釈令の余波で打ち壊されてしまった。残念ですネエ。時代の波とは
    いえ、どれだけ多くの文化財が失われてしまったか、惜しまれます。

     肝心の”通し矢”の話。「江戸三十三間堂矢数帖」というものがあり、
    それによると正保2年4月から天保10年4月までに、通し矢一万本
    以上が6人、その中での最高は天保10年(1839)の太田信吾(紀州
    藩太田市郎左衛門の次男)で1万760本だが、ナントなんと信吾君は
    11歳だったそうです。昔は子供とはいえ逞しかった。恐るべき11歳。

     京都の通し矢は和佐大八が8,133本を記録してから行われなく
    なってしまったが、江戸の方は記録が伸びて挑戦者が減ることを恐れ
    従来の記録を15本以上超えると、「稽古矢」と記録されてしまったこと
    からいつのまにか忘れられてしまったそうです。 オシマイ

     
    | - | 07:50 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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